2011年8月16日〜31日
8月16日 遊佐 〔未出〕 

 先生は先をうながしました。

「ぼくはなんだろう、と思って、イメージでそれを抜こうとしたんです。そしたら、剣にとりついていた黒っぽいものがわっと散って――」

 気づいたら、あの状態だったという。ネイサンはすっかり、気落ちしていた。

「施術って、あんなエクソシストみたいなことになっちまうんですか」

「皆さん」

 先生はほかの犬たちに呼びかけました。

「これはネイサンにおきましたが、皆さんの事件です。自分の力ですべてなんとかできると思った頃に、こういうことが起きるんです」


8月17日 遊佐 〔未出〕

「ネイサンがすべきだったのは、これはなんだ、と思った時点でわたしを呼ぶことでした」

 ほかの犬が聞きました。

「今後、先生がいない間に、ああいうことが起きたらどうしたらいいですか」

「きみはクリスチャンですか」

「はい」

「では、マリア様に頼みなさい」

 犬たちはきょとんとして、「ここだけ、キリスト教なのですか」


8月18日 遊佐 〔未出〕
 
 先生は笑いました。

「わたしは観音さまに頼んでいます。名前はどうでもよろしいが、手に余る時は、わたしたちを助けてくれる存在にお願いするんです。いまここで理屈は話さない。でも、それでうまくいくんですよ」

 その事件はとくにこじれることもなく、モニター期間は無事終了することになりました。 

 先生はご帰国の直前まで忙しく駆け回られました。犬たちを置いていくのは忍びないようでしたが、先生もご自身のクライアントが待っています。


8月19日 遊佐 〔未出〕

「半年後、皆さんの成長を見にきますからな」

 犬たちの腕が落ちたり、間違った工夫に走ったりしないようチェックしなければならない、と言い立て、ヴィラに半年後の短期招聘を約束させてしまいました。

 さらに、今後のモニターには、パンテオンのトルソーを使うことを取り決め、最後の最後まで犬たちに言いました。

「さっさとヴィラを出たいなら、率先してパンテオンの友人たちに施術させてもらいなさい。いいですか。施術してあげるんじゃなくて、させてもらうんですよ。これがコツです」 


8月20日 遊佐 〔未出〕

 犬たちは先生がリムジンに乗り込むまでハグして、泣いていました。
 あの張清さえ、先生に握手を求めました。

「加藤先生。ありがとうございました」

「張清。ユースフを助けてな。きみは賢いんだから、ほかの連中を頼むぞ」

 張清はすこしだけまぶしそうな顔をしました。

 さて、半年後。仔犬の手サロンは、評判が評判を呼びテルマエの中でも人気サロンのひとつとして定着していました。
 犬たちも客にもまれ、すっかりプロの貫禄を見につけています。


8月21日 遊佐 〔未出〕

 それでも半年後に、加藤先生が再訪した時は、全員仔犬のようにおおはしゃぎで飛びつきました。先生もニコニコとひとりひとりに声をかけていましたが、にわかに顔色を変えました。

「ひとり足りない。ネイサンがいない!」

 犬たちはみな下を向きました。
 先生はわっと泣き出しました。サロン管理のゴドー氏をみつけると、首を締め上げんばかりに飛び掛り、

「約束を破ったな! 十人全員売るなと言ったはずだぞ」


8月22日 遊佐 〔未出〕

「売っていませんよ」

 犬たちがあわてて先生を引き剥がします。

「ネイサンは解放されたんです」

 ゴトー氏が白状すると、犬たちはいっせいに笑いました。

 ネイサンはあの事件の後、しばらくしょぼくれていたらしいのですが、やがて先生の教えの通りに、パンテオンの犬たちを率先して治療しはじめました。


8月23日 遊佐 〔未出〕

 パンテオンの犬たちは、チップを払うわけではありません。チップをためなければ、解放資金を増やすことにつながらないのですが、ネイサンはそれは無視して、先生のいいつけをただ愚直に守る、ということをしたようです。

 すると、なぜかネイサンの治療が心地よいという客が増えました。
 さらに、ある意地悪で有名なパトリキが彼をためしに現れ、すっかり彼を気に入ってしまいました。

『このコは少しもものほしげなところがない。じつに気持ちよい』


8月24日 遊佐 〔未出〕

 彼を買い取るとまでいったそうですが、先生の約束のことを伝えると、

『だったら、自由身分になって、うちに来てくれ』

 と身分が贖えるだけのチップを置いていったのです。

 話を聞いて、先生はなかば泣き笑いのような顔をしつつも、

「またいいように金持ちの家に縛り付けられるんじゃないだろうな」

「大丈夫ですよ」

 そう言ったのは、張清でした。半年前にくらべて、この男も人変わりしたようにすがすがしい顔をしていました。


8月25日 遊佐 〔未出〕

「ネイサンは変わりました。前みたいにおどおどといじめられるのを待っている犬じゃない。徳がすべてを征すんです。彼はもう大丈夫ですよ」

 先生はあらためてうれし泣きしました。

「先生のことはほんとに憎みましたよ」

 張清はのちにわたしに語りました。

「わたしは気を感じるんですが、先生の気はとても細かくて精妙なんです。それが部屋に充満していて、ともするとフロアいっぱいぐらいまで余波があるんです。それに圧倒されつづけたんですからね」


8月26日 遊佐 〔未出〕

 自分は荒っぽく、しかも小さいと感じて、やさぐれてしまったと言いました。

「でも、ネイサンがあのお客に殴られた時、先生はすっと気を仕舞ったんです。陽でもなく、陰でもなく、中庸になられた。だから、相手の陰の気が行き場がなくて、消えてしまったんです。あれを見た時、わたしの嫉妬もいっしょに消えてしまったような気がしましたよ」

 その後も半年に一度、先生は一週間ほどサロンの技術チェックのために招聘されます。


8月27日 遊佐 〔未出〕

  といっても、犬たちの技術は日々の接客で磨かれているので、技術交流と同窓会のためだけになっているようですが。

 この十年の間に一期生もほとんど卒業し、二期生も卒業してしまいました。ヴィラ側は、もう少し人員の入れ替わりを長くもたせたいようですが、サロンにくるご主人様がたが喜んでチップを払うので仕方ありません。

 いまは三期生ががんばっています。張清は一度解放されましたが、技術主任として採用されました。彼が二期生、三期生を育てています。


8月28日 ジャック 〔バー・コルヴス〕

 毎日暑いですね。地下は涼しいのですが、やはり冷たいカクテルのご注文が多く出ます。

 氷をクラッシュするのに、けっこう時間を食います。クラッシュする機械はあるけど、やはり手で砕いたもののほうが、きれいな気がするんです。誰が褒めてくれるわけでもないんですけどね。

 でも、あの方はやはり違いました。氷を砕いている時、ふらっと入ってきて、わたしの手をとってキスしました。

「冷たいな」と笑って、出て行きました。
まめなひとです。サー・コンラッドは。(笑)


8月29日 直人 〔わんごはん〕

「ナオ、いいもの持ってきてやったぞ」

 帰るなり、ご主人様ははしゃいで言いました。

「持ちこむの大変だったんだ。飛行機はともかく、ヴィラの門でとめられてな」

 得々と自慢する間、包みをひらくと、出てきたのはなんと花火でした。

 ぼくは笑ってしまいました。もちろん打ち上げ花火ではなく、100均で売ってるボール紙にならんだやつです。

(ネット注文すれば簡単に手にはいるのに)

 でも、言わずにその晩は庭にバケツをおいて、ふたりで小さな火を楽しみました。とてもなつかしかったです。


8月30日 セイレーン 〔わんごはん〕

 ご主人様の食欲がありません。
 ぼくは日本の友人にどうしたらいいか聞きました。

「そうめんだろう」

 ヒロはそうめんの作り方を教えてくれました。

「絶対一分以上茹でるな。茹でたら氷水でキンキンに冷やすんだ」

 ぼくはがんばりました。

「そうめんか」

 ご主人様はよろこび、箸をとりました。でも、もちあげたら、皿のかたちのそうめんが持ち上がりました。
 ご主人様は食べてくれたけど、ぼくはあれは好きじゃないかも。ふにゃふにゃして。

 五時間も冷蔵庫でキンキンに冷やしたんですけどね。


8月31日 ラインハルト 〔ラインハルト〕

 夏休みが終わり、客たちがそれぞれ国へ帰りだした。
 
 おれは今日は早めにあがった。
 ワインを冷やし、食事をそろえ、花を飾って、ウォルフを待った。

「おや」

 ウォルフは帰るなり、

「なんのおねだりだ?」

「用心するんじゃない!」

 食事が終わり、アルコールタイムにいう。

「じつは、さっきの食事、毒が入っていてな」

「ふむ」

「解毒剤はカナダにある」

「――」

「カナダのある特別なメープルシロップがいいらしい」

「……」

「というわけで、次のバケーション、おれたちはカナダに行かなくてはならない」


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